続・余白が語る

 

素敵なひとだからもっとお会いしたいという対象と、Twitterでフォローしたいという対象に若干のズレが生じてきた。

 

これは何故なんだろうと考えてみる。

1番の理由は昨日のエントリにも書いたが、

素敵なひと、すきなひとに対しては

そのひとの言葉を知りたいのではなく、そのひとの語り方を見ていたいから、ということなのだろう。

 

 

Twitterでの言葉は、書籍やブログに書かれているそのひとの言葉より、

少しは気楽で、そのひと自身に近いものではあるけれど、

それでも「誰かに見られている」ということを意識して、幾分か推敲されているものだろう。

特に140字という限られた、しかも流れている媒体では「余白」を見つめるということが少し難しくなる気がする。

 

Twitterでタイムラインにながれてくる言葉たち、またそれを発信するひとに対するわたしの姿勢は

それをいかに解釈し、受け止める・受け入れるかの要素が強い。

 

 

しかし、対面の場合は表情や声の温度を感じながら、

時系列から来る差異や、他のひととも比較しながらそのひとの本質にひっかかってくるような何かを探しだす。

(いや、本質なんてわりとどうでもいいかもしれない)

与えられるものをただ受けるというよりは、

目の前にいる「ひと」という大きな宝箱から、いかにたくさんの素敵なものを見つけだせるか

という宝探しをしているような気分になる。

 

 

 

 

そのひとにどういう風に向き合いたいか、わたしの姿勢の違いかなあ。