余白が語る

30ページ目くらいから「つまらないな…」と思い始めた本を2日にわたって何とか気力で読み終えた。

同著者の他の本をとても面白がった経験があるので、どうしてこんなにもつまらなく感じるんだろうと考えるに至る。

 

 

常日頃、わたしは他人がモノを語るとき、

語られるものよりも、その語り様を大事に扱う傾向がある。

声や、表情、身振り手振り、、、

それらで本質を見抜けるわ!と言い切る気は毛頭ないが、

それらが自分好みであるか否かは語られる内容よりずっと大事である。

なので、対面で何かを聞くとき、耳だけで聞いているのではない。

目を全力で使用し、むしろ目だけを使用してるとも言えるくらいエネルギーを、

わたしの場合は注ぎこんでいる。

 

 

対面でない場合、ましてや会ったこともない著者に本という媒体を通して出会ってしまった場合、

言葉が文字に宿るとすれば、

表情や声のトーンはなににとって代わるだろう。

 

それは余白なのかな、と少し思った。

息継ぎのタイミング、引用までのブランク、今日の本はわたしにとって、すこし息苦しい余白だったんだろう。

 

 

 

先日出逢った読書好きの素敵な男の子が、

「岩波の本は小口(部位)が非常に心地良い」

と熱弁してたのがとても印象に残っている。

真の本好きはその内容も飛び越えて愛するのだなふむふむと感心したものだ。

彼にとって紙質や製法が、声や表情の成り代わりだったのだろうか。