かわいいので無敵
先日、早稲田大学学生会館にて劇団森 無敵三部作『かわいいので無敵』を観てきました。
役者は6人の制服を着た女の子
女の子たちが一斉に
「あなたの名前はなんていうの?」
「ほんとうに、それでいい?」
「そう、これからよろしくね」
と言って舞台ははじまる。
所謂ギャルゲー、特にときメモ脳のわたしにとっては馴染み深い、思わずにやけてしまう台詞。
そう、これは主人公の名前入力を促すゲーム開始時のヒロインの台詞なのだ。
6人の女の子たちも、
素直になれない幼馴染、スポーツ万能勝気少女、無口な不思議ちゃん、
読書好きのメガネっ娘、少し厳しい生徒会長に、清楚な年上のクラスメート、
というギャルゲーのテンプレートをみているような設定。
高校最後の1年間が舞台の環境設定で、1年に起こる行事(体育祭や夏祭り、文化祭に受験など)を通して、
主人公の男の子が各女の子たちと交流を深めていく、
まさにこちらも王道ギャルゲーのストーリー。
主人公の男の子は何処にいるかというと、
舞台上に用意された"学生帽"が主人公の男の子としてのアイコンで、
それらを被ったヒロインが、その時だけは主人公の男の子に成り代わって物語は進行していく。
要所要所に用意された80年代から現代のAKB48に至るまでの様々なアイドルソングに乗って制服のヒロインたちが踊る場面は
まさに『かわいいので無敵』状態。
(そして女子高生は無敵)
「女の子は可愛いを失くしたらいけないよなあ…」と一緒に踊りだしたくなるわたし。
いやあ、おもしろかった。
キャラクターの濃い女の子たちの群像劇も面白かったし、
前述のアイドルソングに乗って女の子たちが踊る場面も良かった。
けれどなにより、その落とし方。
卒業式の日、主人公に告白しようと気持ちをぶつける女の子たちの叫びが物語終盤の山場なんだけれど、
それを受け止める主人公は何処にもいない。
ぽつん、と舞台の真ん中にそれまで主人公のアイコンとして使用された学生帽が置いてあるだけ。
そう、ゲームにもよるけれど、ときめきメモリアルなんかは基本ゲーム内で主人公像は描かれていないんだよね。
名前と生年月日と血液型、そして学生服のイラストがあるだけ。
それ以外は空白。
また、告白というイベントも報われるのは主人公に選ばれたたったひとりだけ。
それ以外の女の子たちは最後は何処にも現れない。
高校3年間という枠の中、高校という枠の中、青春という枠の中から、彼女は永遠に出れない。
それら枠の中でのみ保証された「かわいいので無敵」。
そこから出てしまうと、彼女たちは死んでしまう。
サブタイトル?に"女の子のための舞台公演"と書かれていたのだが、
その女の子たちは結局、男の子の作り上げた殻の中でしか息をしていないんだよね。
『少女革命ウテナ』を思い出すような、その構造がとてもよかった。
特にわたしは"ときメモ脳"の人間だったのでw
キャラクターとしてしか見つめてこなかった彼女たち(またその可愛さ)をリアルに引き出して皮肉る手法が面白かった。
アイコンとしての"女の子"は必ずかわいい。
男の子が好きになるような女の子は必ずかわいい。
けれど、それらを裏打ちする醜さ、悍しさがあることもわたしたちは知っている。
"かわいい"だけが欲しければ、人形でいいのだ、二次元でいいのだ、とわたしは常に言っていた。
生身の女の子がほしければ、"かわいい"以外も受け入れる度量がないといけない。
"かわいい"だけであったはずのキャラクターたちが、その無敵状態を自ら捨て去るラストシーンが
不思議な後味を残していった。
不満…というわけではないけれど、気になったところといえば、
一見個性豊かに見えた女の子たちのキャラクターも
主人公に惚れ込んだ後は所謂「ツンデレ」か「デレデレ」のパターンしか無く、
これはこの舞台に限った話ではなく以前川上弘美の『ニシノユキヒコの恋と冒険』という本を読んだ時にも思ったのだが
"好き"ってバリエーションが少ないよなあ、と。
"好き"未満にはそれぞれの性格の色が濃く反映するのに、
"好き"以上になってしまうとどうしてあんなにも均一化してしまうんだろう。
"好き"という言葉はひとつでも
その意味や色や形は、その関係性の数だけ存在するはずなのに。