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中国武術をやりました。

スタッフとして関わっている"思考訓練の場"を提供する『シェア大学』

の講義のひとつ反近代的体育実習にて、

中国武術をやりました。

 

内田樹の本を読み自分の身体の可動域に関心を持ち、
まれびとハウスで行われるヨガを体験し、
自分の身体との語り方を少し掴み、
更に範囲を広げるために、中国武術を勉強しました。
(と言っても、まだ1回だけだけど)

 


一度だけなので、勿論組み合いなどは学べるわけもなく、
はじめはひたすら基本の型「丹田功」のみ。
丹田を意識して、またそれを放つを繰り返す。
(この力を利用して他社を攻撃するのがこの武術の特徴らしい)
↑このへんまだよく判っていない。

 


丹田を練りながら、自分の中でひとつ発見だったのは"視線"について
ヨガは自己の身体との対話
視線を遥か外に向けることもあるけれど、
基本的には自分の内部を向いているので
わたしはヨガをやっている間は目を瞑っていることが多く、

遠くを見つめているときもあくまで空を見ているに過ぎません。



この武術では、
丹田功をする際に「視線は下げないように」と先生に言われました。
その意は、視線を下げると丹田が下を向くから、
とのことですが、
自分の目の位置の少し上あたりをじっと見つめて丹田を練りながら、
「あ、これは相手を射るための視線なのだな」
と思いました。

 


身体の可動域を拡大させるため、自分との対話がきっかけでしたが、
あくまでこれは武術
相手がいて成立する技術なのだ、ということに気付きました。
それは相手を攻撃する、というばかりの意味ではなく、
ただ相手がいるということを意識する、
他社との関係性を重要視しなくては存在し得ない
ひとつのコミュニケーションを学ぶ方法なのだと。


恋愛ワークショップを一緒にやってくれている講師の高石くんが一時期格闘技をやっていた理由を、これで少し理解しました。

武術の世界にほんの少し足をかけ、

自分自身に目を向ける行為と並行し、

他者を射る視線を身につける術に関心が高まっています。

他者を射る視線を得ることは、他者を包括する術を得ることに繋がらないかしら。

 

 

 


またひとつ、世界を見つめるレンズを見つけた。