みみっこだより

みみっこ(@mimicocco)だよ〜

2012-05-17

永遠の永遠の永遠

 

世界の平和など願ったことはない

イメージが出来ない

この世界にひとつの悩みもなくて、みんな笑って幸福に過ごしている未来なんて

気持ち悪いとすら思う。

どの時代を切り取っても

そこには一定の苦悩や困惑を世界は抱えていて欲しい。

(苦悩や困惑を抱えることが人間として美しい形だと思う)

美しい未来などなくていい

薄暗い遠い到達できない未来の世界で

ただひとつでもわたしの何かが

彩りや輝きや安堵感を持てていれば

それは幸福なことなのだと思う。

世界は困惑を抱え続けて欲しい。

同じ数だけの救いを持ちながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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草間彌生  永遠の永遠の永遠』( http://www.asahi.com/kusama/  )を観てきました。

2012-05-03

自己紹介が苦手です

 

自己紹介が苦手です。

 

 

ここまで成してきたことなど何ひとつ無く、

今成そうとしているものなんてきっと永遠に判らぬままで、

何に興味があるかと問われれば

あなたの興味のあること、その全てに興味があります。

あなたが目を輝かせて夢中になること、

声を枯らせて語り続けること全てに、興味があります。

 

世界に触れ、変化を謳うあなたに触れることで

世界の何処かにほんの少し触れることの出来る

 

ただのひと にわたしはなりたい。

2012-04-26

はじめてヨガをやりました かんそう

 

SHISHO先生による「そらいろYOGA in まれびとハウス」にて

ヨガを初体験しました。

 

以下かんそうぶん

 

 

①「自分の身体の中を感じて」

という先生の言葉から自分の身体の中を感じれば感じるほど、

身体の中にはなんにもはいっていないんだなあということに気が付きます。

約1年前大きな地震がおきた頃、怖くて毎日横になって天井を眺めるばかりだったあの頃にも

なぜだかおんなじ事を感じました。

脈々とわたしの身体の中に流れるものも、わたしの外に流れるものも、

全てはまったくおんなじで、

たまたまわたしはわたしの身体という枠をもって、

それらを捉えているにしか過ぎないのだと。

その時はじめて知った自分自身というものに、久しぶりに触れた気がしました。

 

 


②「息を吐くときは、自分の中の要らないものを一緒に吐き出すように」

という先生の言葉で息を吐き出すのですが、

考えても考えてもなにも浮かばず、

ああ、今のわたしにはいらないものなどなにひとつないんだなあ

ということにも気が付いたのも大きかったです。

吐いても吐いても、追い出すものなんてなんにも無いんです。

そこになにも無いからなのかもしれません。

 

 

 

③時間が経つごとに、自分の呼吸を感じなくなっていったのが不思議でした。

最後寝転がって目を閉じて、暗闇を味わいながら自分は呼吸をしていない、

鼻を通じて空気が行き来しているのは判るのだけれど、それは酸素や二酸化酸素の出入りではなく、

単に風がわたしを通り抜けているだけ、そのように感じました。

(後で最後のポーズが"屍のポーズ" と名がついていると知って衝撃)

 

 




元々身体がとても硬いので、

各ポーズ自体はわたしにとって非常に難解で、

先生が言っていたような"自分の身体の使い方を知る"ということはまだまだよく判りませんでしたが、

今日は上記項目だけでも気付けてよかったです。

 

 

 

 

 

 

 

そらいろヨガ in まれびと

http://www.facebook.com/events/278276195598510/

(来月は10日と23日を予定しているので、興味ある方はお気軽に是非どうぞ)

 

2012-04-25

「いつだって帰ってきていいのよ」とハハはいった

 

「いつだって帰ってきていいのよ」

とハハが言う言葉が、怖くなったのはいつからだろう。

 

生まれ育った環境から出ていくことは恐いものだろう、

肩肘はらずに無理せずに、けして傷つかないわたしの箱に閉じ込めてあげるから

という聞こえない声が聞こえ始めたのは彼女が何かにつけてその言葉を頻発するからだろう。

 

 

 

「いつだって帰ってきていいのよ」

と自分が言うようになってしまって、その事実に恐れては悲しくなっている。

わたしが今いるような場所、それを伝える貴方にとって優しくて暖かい場所、

それを一度出ると決めた貴方にとって、こんな場所は戻ってくるべき場所じゃないんだ。

遠く離れたわたしのいない場所で、貴方が苦労しながらも元気でなんとかやっていることが本当は一番望ましいのだ。

「いつだって帰ってきていいのよ」

は与えられる側のための言葉じゃない、わたしのための言葉でしょう。

 

自分にとってさわり心地のいいものを閉じ込めるためにハハのように同じように

その言葉を使いたくはなかったのに。

2012-04-24

ミュージアム・トリップ vol.3 ~対話式鑑賞法って何?!~ に遊びにいってきました。

 

「まれびと美術館

(通称 まれ美)

の企画・代表でもあり、そこから派生した

「まれびと大学(仮)」の平野ゼミ 教授でもある平野智紀さんが出演されるということで

お台場にて行われた

「ミュージアム・トリップ vol.3 ~対話式鑑賞法って何?!~」

というイベントに遊びに行ってきました。

 

 

 

タイトルにもある通り、このイベントは美術館との新たな繋がり方を見出す企画第3弾で、

平野さんが主に研究されている"対話型鑑賞"を今回はテーマに扱われたものです。

(対話型鑑賞に関しては上記リンクに詳細が記されているのでここでは語らないことにします。)

 

イベントの"対話型鑑賞"の鑑賞対象となる作品に

わたしの作品を使用して頂きました。(今回で実は3度目)

 

 

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↑わたしの作品をナビゲートしている平野さん

平野さんの行う対話型鑑賞イベントは大抵こうして作品を前面にプロジェクションします。

 

 

 

 

まれびとハウスでの対話型鑑賞イベントとその後に三田の家でのイベントにも遊びに行かせて頂いたのですが、

今回は場所が場所だったために、

プロジェクションも壁3箇所を使用した投影、

ナビゲーターはマイクを使用してのナビゲートと、

今までにない大きな規模で行われていました。

 

大きいのでその分参加者も多かったので、その面では良いと思うのですが、

肝心の"対話"という意味では少し残念な場所の使い方のように思われました。

というのも、今回のイベントで行われた"対話"とは殆ど鑑賞者とナビゲータの一方向にしか行われないものだったためです。

 

平野さんの研究、実践されている対話型鑑賞に於ける"対話"とは、

ナビゲータの存在が重要なのは勿論ですが、彼らと鑑賞者であるわたしたちだけの関係でなく、

作品と鑑賞者に行われるもの、また鑑賞者同士で行われる対話も含まれているとわたしは思っています。

 

場所が大きく、また鑑賞者が基本座ってご飯を食べるような姿勢の今回のイベントではまず

作品との距離を自在に鑑賞者がコントロールすることが難しかった。

(平野さんはまず、様々な方向や角度、距離を変えて作品を鑑賞するように薦めます)

作品との距離はワンパターンである必要はなく、時期や空間によって様々に形を変えることで、

見え方・与えられるものが変化されるべきだと思っています。

 

そしてマイクを受け渡す方式の発話では、鑑賞者同士、他人の視点や意見に影響されていく"対話"の面白さが

削られていたように思いました。

グループでの対話には波があり、ひとりの発話から主題がコロコロ変わることで、

それまで自分が見てもいなかった観点に気付かされるものです。

 

 

以上のような、わたしが対話型鑑賞を面白いと思っているポイントのいくつかが

削られていたので、鑑賞者としても少し消化不良な感じがしました。

 

 

 

しかし、そのような形式でも"対話型鑑賞"と銘打つことで

ただ作品に対して情報という説明を与えられるのとは少し訳が違う、

キャプションの隣に作品の概要が並び、それを口頭で説明されるのとは異なり、

まず一度、自分の頭で考え、自分の言葉に起こし、その後で情報などについて知ることで

それらの情報をとても自分ごとにしやすい、

自分に引き付けることで理解・納得力が凄く変わってくることも改めて認識させて頂きました。

 

 

 

 

 

また、前述のように今回で3回目になるのですが、

同じ作品で何度も対話型鑑賞をして頂く、というのも非常に面白いものでした。

(ちなみに作品はこちらのブログ記事を大きくしたものです。)

更に今回はゲストに東京都写真美術館の学芸員である山峰潤也さんがいらっしゃったので、

鑑賞の最後の方は講評のようになり、

とても嬉しくて有難い反面、他のお客さんに申し訳なかったり…

 

ただ作家としては、鑑賞者の飾り立てない生の声を聞けるという意味で、

対話型鑑賞にお邪魔するというのは非常に美味しい体験だと思っています。

 

 (ちなみにわたしの作品「ぬくまちくんとささこ」

  個人ブログ「ガラテアソーマ」にてなんとなく連載されている記事の一種で、

  この写真とこの言葉の組み合わせである必要はない、

  別々の組み合わせで見つめることが出来、都度意味合いが少しずつ変わっていくかもしれない、という

  『幸運なランダム性』とでも呼べる写真と言葉の一種のコラージュ作品のようなものです。

  これらの写真と言葉の間にある"溝"のようなもの、

  その"溝"を埋める鑑賞者の視点の拡がり方が対話型鑑賞に適しているのではないか、

  というのがわたしの見解です。)

 

 

 

壇上にて、平野さんと同じくゲストの奥本素子さんが仰っていたのですが、

ある一定の年齢を超えると、対話型鑑賞は作品をみると同時に、

鑑賞者の経験や人生を見るのに等しくなってくる。

わたしもつくづくそう思います。

ひとつの作品に対してまずどういう方向から視点がはじまるのか、

他者の意見を聞いた上で、その視点をどう動かし、どう反応が変わるのか、

その全てが個人を語ります。

わたし自身、鑑賞し発話することで恥ずかしくなった経験も。

「ぬくまちくんとささこ」のような作品だと特にそうですね)

 

個人を語るのはそのひとの持つものではなく、

そのひとが物事をどのように見つめるかではないのだろうか、

というようなことも感じさせてくれる対話型鑑賞。

"対話型鑑賞"というと何だかきちっとした形式があるように聞こえますが、

要するに誰かと一緒に作品を見ながら対話をすればいいのです。

 

気になる相手との最初のデートといえば映画館が主流ですが、

作品を媒介にゆっくり相手と対話することが出来、

そのひと自身を見つめさせてくれる美術館でのデートも中々オススメです。

 

 

 

 

 

 

平野智紀さん個人HP            

http://www.tomokihirano.com/

猫田耳子写真ブログ 「ガラテアソーマ」 

http://blog.goo.ne.jp/mrs_chocolate

「ぬくまちくんとささこ」特設ブログ        

http://ameblo.jp/nukumachi/

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2012-04-18

おけいこカメラのこれから 〜こどもカメラの中村愛さんに会って〜

 

少し前になりますが、

「100ぱーせんとコドモカメラ」中村愛さんとのミーティングに同席させて頂きました。

 

中村さんは子供に一眼レフで写真の撮り方を教える方で、

わたしもかじるように写真を習って、撮っている人間としてはとても興味深い話が聞けた時間でした。

 

 

まず最初に、一眼レフを扱わせるという事で

逆光や順光の話、ISO感度や絞り、シャッタースピードについても子供に教えるそうなのですが、

子供たちが飽きないように、とクイズ形式にした教材がとてもわかりやすくて、

子供ということに囚われず、大人も(というかわたしも)今一度この教材にて学びなおしたいと思ったり。

(わたしが学んだ大学ではまずカメラの構造を教えてもらったんだけれど、

 正直ちょっと難しくてごにょごにょ…)

 

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↑適切な光の扱い方をまず焼いた写真上で判断する

 

 

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↑「あかるさ3兄弟」と称して、ISO感度、シャッタースピード、絞りを覚えるクイズ

 

 

 

 

子供の撮った写真、というとブレやボケ、視点の低さばかりが

大人と比較して取り沙汰されるのが気になったそうで

これも子供に限らずだけれど、写真は絵とは違ってシャッターを押せばとりあえずは"撮れてしまう"

だからみんな感覚でなんとなく"使ってしまっている"ひとが多すぎる。

本当は感覚ではなく、もっと理論的なものなのに、、、というのが中村さんの論。

"撮れてしまった"ものではなく、裏打ちされた技術の上に"どういう画を撮りたいか"という

想像・創造の話になるところまで経験、技術を積んで欲しい、と。

 

正直、わたしの耳にも痛い言葉でした。

最初はフィルムの一眼レフを扱うところから写真には入ったのですが、

最近専ら使うのはコンパクトデジカメばかり

たまにデジタルの一眼レフを使うと、いつも最初の調整でしばらくは戸惑うばかり。

じっくりとカメラの理論について話してみて、と言われたら出来なくもないと思うのですが

多分それがちゃんと身体に染み付いていないからなんだと思います。

 

子供のうちからクイズ形式で身体に染み付けるように覚える、というのは写真教育としてとても良い気がします。

 

 

 

 

子供のうちからの写真教育が、どういう意味で良いのか、と聞かれると正直未だなんとも言い難いのだけれど

ピアノやキーボードのおけいこで音の扱い方を覚えるように、

カメラのおけいこで小さい頃から光の扱い方を覚えたら、

その後見るもの、触れるものとの関わり方が子供にとってどう変わっていくのか、

またおけいことしてカメラに触れた多数の子供が成長して、写真技術・写真の世界がどう発展していくのかはとても気になるところです。

 

 

 

 

「pair camera」で少し語ったりもしましたが、

わたしはカメラを持ち、写真を撮りはじめることで"見る"ということを覚えた気がします。

どのように世界を見たいか、どのように世界を彩りたいか、考え始めたきっかけのような気がします。

メディアから注がれるステレオタイプの美とはまた異なる、自分にしか見つけられない"うつくしい世界"を見つけられるようになった気がします。

そうして世界の切り取り方を覚えた人間は今度、

その美しさについて共有しようとしはじめます。

(いまの、これからの時代はより一層共有が容易になる世界ですね)

 

 

カメラというものが与える自己の内省に向かわせる刺激と、

行為(好意)に主体性を持たせることで育まれる社交性。

幼い頃からこのふたつを学ぶことが、後の成長にどういった影響を与えるのか。

 

 

"趣味"では終わらない、"おけいこ"としてのカメラがすこし気になるお話でした。

 

 

 

中村愛さん(中村こどもさん)個人サイト http://hidamari-camera.com/

2012-04-04

歌舞伎町の話

 

所用で、はじめて歌舞伎町にひとりで降り立った。

 

"歌舞伎町"という名が持つ先入観のためか、JR新宿駅構内で既にわたしは、ひとの流れに酔って具合が悪くなっていた。

「もうなるべく新宿には来たくない」と今まで何度思っただろう。

駅を1歩出てから歌舞伎町に向かうまで(案の定迷った)、わたしの身体は震えに震えていたのだけれど、

実際歌舞伎町と呼ばれる地域に辿り着くと、不思議とその震えは薄れていった。

 

 

道に迷い過ぎたため待ち合わせに遅れることを懸念して、それどころじゃなかったからかもしれない、

たまたま声を掛けたホストのお兄さんがとても親切にしてくれたからかもしれない、

待ち合わせ場所に辿り着く頃にはすっかり"普段通り"の自分を装えていた。

 

そもそもわたしは約3年、川崎の歓楽街で働いていて、

ああいった街並みには慣れていた筈で、

なんだ歌舞伎町も川崎と(規模の差異はあれど)変わりはないではないか、と

安心して帰路に就いた。

 

 

が、歌舞伎町で安心しきったわたしの身体は不思議なことに、

JR新宿駅構内でまた、怯え始める。

 

歌舞伎町にいたひとたち、薄汚い強欲さを隠さずに晒すような、きらびやかな嘘で嘘を塗り固めるような、

東京中の穢れを一気に引き受けてしまっている、そんな一種の覚悟のようなものを感じる場所よりも余程、

駅構内の、一見なんの変哲もないがその実は、

何処になにが潜んでいるかまったく見えない、

なにを考えているかまったく判らない人の波に流されてしまう場所のほうがわたしには恐ろしいことだと気付いた。

 

 

「嘘の嘘は真実だ」なんて屁理屈を捏ねては、歌舞伎町を正当化する気は無いけれど、

そもそも嘘があるか無いかもわからない、あるとしたらどんな色形をしているのか想像もつかない、

そんな場所に身を置く方が、疑心暗鬼でやつれそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なんて、

はじめて其処に来た人間に、ここまで言葉を並べさせることの出来る

それこそが歌舞伎町という町の魔術で、わたしはそれに騙されているだけかもしれないけれど。