イマココカラ

 

これまで当たり前にできていたことが、いきなりぜんぶできなくなってしまって

たぶんはじめてPCの前でえーんと泣いた。

(まあ実際には涙目になった程度なんだけど、そこはオトナだから)

 

自分がどうやって仕事をしていたか全然思い出せなくなってしまって、

たとえばお腹がすいたので美味しいものを食べるとか、野球を観て楽しいとか、

そういうことはちゃんとできるのに、

ちゃんと考えるための頭の部分だけが鍵を締めて閉じこもってるみたいで。

 

こんなことははじめてでちょっとどうして良いかわからなくて

もしかしてこういうのが心の病と呼ばれるものなのかと動揺して

あーほんとにこういうものは予想もつかないところから

「まさか自分が」というところからやってくるものなのだなあと。

 

 

自分が自分でなくなってしまったようで

もう二度とちゃんと仕事をしていた自分に戻れないのではと考えたりもして

気持ちがとても落ち込んでまたえーんと泣きそうになるのだけれど

まあそれはそれでここからまた新しい自分の仕事を見つければ良いかと思えるので

やっぱりわたしはだいぶのんきな気質のかもしれない。

 

君が見たい未来

 

 

すこしだけ悩んでいることがあったので、

友人とお好み焼きを食べながら相談した遅めのお昼やすみ。

 

「色々あるけど最終的にはさ、

君が見たいと思う未来を創り出すことだけに

そのエネルギーを注ぎ込むべきなんだよ。」

別れ際に彼にさらりと言われた言葉は

誰かの講演や記事や書籍なんかでは聞いたことがあるフレーズだったけれど、

一対一の極個人的な対話でこういうことを言ってくれるのは

とても凄いことだなあと印象に残ったのだった。

 

 

 

みる人

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野球観戦にはまってしまったお陰で、

すっかり映画館や美術館へ行く機会が減ってしまった。

 

けれど感覚的にはどっちがどうであるとかあんま変わらないんだよなあ。

 

わたしはきっと何を観ても何かを見出すし、考えてしまうから。

勝ちと負け

 

 

連日オリンピックや高校野球がメディアを賑わしているけれど、

変わらずペナントレースばかりを目で追ってしまうのはそれが「大舞台」で無いからだとふと思う。

 

歴史的勝利をおさめても、目も当てられない大敗を期しても、

明日も同じように試合がある。

 

それが人生であり生活だ。

 

どんな気分なんだろうな、毎日明確に勝ちか負けかを手に入れるような生活は。

なんとなく

 

おうちに棲むひとたちの歓送迎会だったので、みんなで餃子を食べた。

こういう日は決まって餃子を食べる。

包んで、焼いて、食べるところまでみんなで一緒にできるから。

あと、それぞれ好きな具材を包むことができるのも良い。

今日は持ち寄った手作りりんごジャムやタコスの材料も一緒に包んだ。

 

わたしたちはひとつのコミュニティにいるので、仲良くしましょう!

…というのはとても気持ち悪いし、

これから同居人になるので、深い話をしましょう!

…というのも具合が悪い。

 

ただなんとなく、一緒にいるのが好きだ。

なんとなく一緒にいながら今日食べたご飯や天気の話をしたりして

その日の気分でちょっと自分の夢を語ったりもしちゃって

ゆっくり、近い存在になっていくのが良い。