思考の「はらっぱ」思考の「すみっこ」
ものを書くのが好きな性分が悪化したのか
最近はもの書くノートを4つ持っている。
ひとつは所謂手帳の役目を果たす。
詳細なスケジュールはPCで把握しているが、
極近日のタスクをPCやスマホで把握するのはわたしには難しく、
手書きのチェックボックスを作っては塗りつぶし、付箋を貼っては剥がしたりしている。
ふたつめは仕事に関する勉強用。
得た知識や技術を書き留めたり、
良い絵や図を切り取って貼り付けてスクラップブックのように使ったりもする。
みっつめは思考に関する勉強用。
本や記事を読んで得た知識をそのまま書き写したり、
そこから生まれた自身の感想を並べて置いておく。
内容は感心の深い哲学や宗教であることが多いが、
たまに政治や経済のことになったりもする。
よっつめは最近再開した所謂日記となるもの。
これまでのみっつ全てからあぶれた、垂れ流される思考を留めておくためのもの。
何故かこのノートだけは、字をキレイに書こうと心掛けている。
ワークショップ等において最近「はらっぱ」と「すみっこ」という概念をよく聞くが、
自分の中の思考にもその概念は同じく適用されるように思う。
思考ひとつを掌におさまるくらいのボールに見立てる。
何気なくぽん、とひとつずつそれを自分の中に投げ込んでみると、
はらっぱのようにみんなが集まる場所を好むものもあれば、
やけに端のすみっこに寄りたがるものもある。
どれもこれもと全部一緒くたに吐き出すよりは、
それぞれ適したスペースに囲んであげるほうが調子が良さそうだ。