現代アートはいつまで現代なのか

 

高校生のとき、とある現代アート作品(と呼ばれるもの)が

とある新聞に取り上げられていたのを読んだ。

 

その作品がどんなもので、どの新聞に取り上げられていたのかはどうでもいいのだ。

(というか覚えていない)

 

その記事の締めくくりの一文に

『この作品は、現代アートファンの間でとても楽しまれた。』

とあったのがもうずっと気になっている。

 

 

現代アートとは、現代アートファン(またその作り手たち)同士で

楽しむためのツールではない。

…ではない筈だ。

もっと対象は広域で、現代アートという文脈を共有している人間だけが遊ぶためのおもちゃではない筈だ。

むしろ芸術という敷居が高く映ってしまっていたものを

もっと人々の意識化で引き落とすために発祥したものだとわたしは思っている。

 

しかし、少なくともその記事を書いた記者には

その作品を取り囲むひとたちみんなが、

その文脈を共有している限定的な存在に見えていたことは確かだ。

 

 

 

 

 

 

 

今日ワークショップについてのカフェイベントに参加しながら

なんでだか、そのことを久しぶりに思い出していた。