めろめろ

  

大学内をふらふら歩いているとき、

いつも思い出す情景がある。

 

 

夜の芝生に寝っ転がって、

ゆっくりと欠ける月を静かに眺める。

 

 

 

この世界には興味のあるもの以上に

興味のないものが多すぎる。

けれど私にとって興味のない大多数のものそれぞれに

めろめろになっている人もいて。

その日インターネットではナントカ月食で話題は持ちきりで

それにめろめろになっている人の「見てみようよ」の一言で

私ははじめて夜の芝生に寝っ転がって、ナントカ月食を見たのだ。

 

この世界には興味のあるもの以上に

興味のないものが多すぎるけど

何かにめろめろになっている人の側にいるのがどうも好きなようなので、

その人たちのおかげで知りたいものが増えていくのは嬉しい。

 

 

 

「いってらっしゃい」と「おかえり」の呪文

 

 

昨夜からうちに遊びに来ていた見知らぬ男の子が、今朝出て行くタイミングに

「いってらっしゃい」と何気なく発したら

「久しぶりに誰かにいってらっしゃいって言われました。夫婦みたいでなんかいいですね」

なんて返されて。

 

あーそうそう、わたしも

まだ大きなおうちの住人ではなかったとき、その日初めて会った人に

「いってらっしゃい」を言われ

そのとき感じたじわ〜っと暖かいものだけで、

なんとなくその先の長い生活を保たせていたことを思いだしました。

 

 

 

彼女

 

 

「彼女は元の彼女に戻ろうとしているのではないのです、

無理のない新たな彼女に生まれ直そうとしている」

そんな言葉を思い出す。

 

ひとは一体他人の何の部分を好きになるのだろう。

まるで中身が入れ替わっても、それでも好きで在り続けることに

果たしてそこまで価値があるのだろうか。

「私はこの人の◯◯なところが好き」といって

それが失われたら去るという判断も、充分純粋な愛情だと私は思う。

 

それでも自分がそうはなれないのはきっと

好きな人のことはいつも「なんとなく好き」でいたいからなのだろう。

その人の柔らかな輪郭を捉え、ぼんやりとそれをなぞるように

なんとなく寄り添っていたい。

 

きっと中にどんな要素が入っているのかは

そこまで重要ではないんだろうな。

 

 

 

大分出張二日目

 

朝から稼働し、大分市美術館→大分県立図書館→アートプラザ(旧県立図書館)と周り、最後に先日も訪れたOPAMの開催展示「モダン百花繚乱」解体ツアーに参加する。

大分市で見たかった場所は全部見れたので満足だが、おかげでへとへとだ。

 

 

以下、昨日の文章を焼き直し。

 

 

 

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明確に“アート”と呼ばれるものに初めて触れた高校時代、

東京芸大先端芸術表現科卒の美術教師が出会いのきっかけだったことが影響してか、当時の私はオノ・ヨーコ中山ダイスケに傾倒し、マルセル・デュシャンの「泉」やミシェル・フーコーの「これはパイプではない」に感化されまくり、ある意味ベタベタのアンチミュージアム思想の持主だった。

そのため大学進学で念願の状況を果たしても、同期生に比べミュージアムに自ら足を運ぶ回数は極端に少なく、また自作の発表においても、用意された展示空間より通り道のような公共性の強い場所を強く好んだ。

 

そんな私が今やミュージアムの研究者に出会い、共にミュージアムツアーや鑑賞イベントを行うだけでなく、こうして遠方まで仕事としてミュージアムに関する調査をしているのが自分でも少しおかしく思う。

 

とは言え、一度強く着込んだ思想を脱ぐのは非常に難しい。

こうして好んでへとへとになるほどミュージアムに訪れても、私の思うミュージアムの最終的で最大の使命はやはり「ミュージアムから鑑賞者を追い出す」ことと信じてやまない。

今日アートプラザの磯崎新 建築展示室(ちなみに今回観た展示企画の中ではこれが一番良かった。展示手法はともかく)にて

「美術館とは、すでに額縁と台座をそなえて、世界中を流動している“作品”の仮泊の場にすぎない」

という一文にたまたま出会ったが、額縁も台座もそしてもちろん仮泊の場も持たない鑑賞体験こそ私が真に望むものでありそれは10年経とうと、どのような情報を得ようと変わらないのだ。

 

 

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こうして何か(たとえ自分自身の思想であっても)を断定的に語るのが嫌で、アートとは一時的な離婚を決意したのに、とんでもない方法で再会してしまったなあ@大分

 

大分出張一日目

 

大分県立美術館OPAMにて県内全ての小学生を美術館に招待する教育普及プログラム、小学生ファーストミュージアム体験事業を見学させて頂く。

 

20名弱の小学生を引率するボランティアガイドと小学生たちの対話を間近で見聞きしながら、自分が美大に入ったころミュージアム自体が苦手で自作の展示先はなるべくハコモノを避けていたこと、卒業した後博物館研究クラスタとの自主ゼミによってはじめてミュージアムの魅力に強く惹き付けられたこと、対話型鑑賞プログラムのイベントに深く関わったこと、これまでの様々なことを想起した。

その結果、美術の道を志した10年前と美術館及び美術鑑賞に求めるものには寸分の変化が無かったことを淀んだ記憶の底から掬い出した。

 

美術館鑑賞を通過した後、一歩外に出て見えた空に自らの青を見出すこと。

美術鑑賞を学習として捉えたとき、到達すべきものをそう信じて止まない。

 

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 大分は今日は雨だった。

 

 

 

いろかたち

 

わたしの中にあるごく僅かな理性(と呼ばれるもの)が

わたしに人を殺させなかったり、わたし自身を刺させなかったりする。

 

それは一体どんな色・形をしていて、

わたしの中の大体どの部分にあるのだろうか。