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「かわいいはつくれる」を許せない


これまで生きてきた中で、ここ最近の自分の顔が一番嫌いだ。

明確な理由は判らないが(太ったというのはちょっとある…)

とにかく、

顔を洗うときも、化粧するときも、街中でショウウィンドウの前を歩くときも、

なるべく自分のことを見ていたくない。

 

「ひとは見られてキレイになる」という言葉があるが、

逆を言えば見られないとどんどん醜くなっていく。

それは自分の視線でも変わらず、

『醜いから見たくない』

『見ないので些細な変化やミスに気付かない』

『どんどん醜くなり、もっと見たくなくなる』

負のスパイラル以外の何物でもない。

 

 

 

 

何処の広告会社が言い出したか知らないが

「かわいいはつくれる」

という言葉が氾濫している。

 

「かわいいはつくれる」

整形という極端な例もあるが、

概ね"かわいい"は生まれながらの形態に起因するのではなく、

生きる上での努力値に換算されると思われるので(それも年齢を重ねれば重ねるほど如実)

強ち馬鹿にはできない。

 

 

しかし

「かわいいはつくれる」は

「かわいいをつくる」のに躊躇しないひとに限られる。

『痩せて、化粧して、清潔な服を着れば「かわいいはつくれる」のに躊躇?』

と思うでしょう。

これ、当人にとっては深刻な問題なのだ。

理解は出来る。けれど、無意識下で「かわいいをつくる」をどうしても許せていない。

 

 

 

 

わたしの場合それは幼少期に起因する。

わたしの家では何故か小学校高学年まで髪を伸ばすことを許されなかった。

許されなかったどころか必ず"坊ちゃん刈り"にされていた。

まだ身体的に殆ど性差を持たない年齢の子どもが坊ちゃん刈りなのだから

何処へ行っても必ず男の子に間違えられていた。

歩けるようになり、喋れるようになり、自分ひとり自転車で隣の町に行けるようになるまで毎回。

スカートを履いていたって男の子に間違えられた。

その時の感情を今思い出すことも、

俯瞰的に論考することも今のわたしには難しいが、

敢えてドラマティックに解釈するなら

「こんなにも男の子に間違えられるのに、どうしてわたしは男の子じゃないんだろう」

「ここからどうやったら男の子になれるんだろう」

そんなことを思っていたかもしれない。

家族による"坊ちゃん刈り"の儀式が終わりを告げた後

念願の髪を伸ばすことができても、女の子らしく振る舞うことがどうしても出来なかった。

高校に入り、ファッション誌を見るようになるまで自発的にスカートを履いたことはなかったし、

20歳超えるまでわたしは自分を「わたし」と呼べなかった。

周りから男の子に見られることが当然だったから。

 

 

 

短いスカートを履いて、肌を露出して、

髪を伸ばして巻いて、マスカラをつける。

女の子に見られるための方式は大人になるにつれ学んだ。

けれど、それは所詮女の子に見られるための仮装でしかない。

仮装を楽しめた頃は良かったけれど、

更に年を重ねるにつれ周囲の女の子は「仮装などしていない」ということに気付く。

彼女たちにとって「かわいいをつくる」は育つ上で自然に得た所作なのだ。

わたしの「かわいいをつくる」は付け焼刃に過ぎない。

 

 

「かわいいはつくれる」

のは仮装をしようとなどしない、かわいいひとに許された特権なんだよ。

わたしなんかに許されちゃいけないんだよ。

 

それでもなんとかみんなのようにかわいく(きれいに)なりたい気持ちに嘘は付けず、

先程コンビニで久しぶりにファッション誌を買いながら

いくつになっても浮ついた自分を恥じて唇を噛んだ。