口承文学としての「エヴァンゲリオン」
なんだかすごくたくさんのひとが観ているらしい「エヴァンゲリオン」の新しい映画『Q』
先日土曜に公開開始したにも関わらず、
我が家の同居人も既に3人が鑑賞し、うち2人は今週中に2度鑑賞するという。
恥ずかしながらわたしは「エヴァンゲリオン」の映画を1度も観たこと無く、
学生時代の暇なGWに勢いでアニメ版だけをたった1度だけ、20話まで観たことがあるだけだ。
(今になって思うが、20話まで観ても1話にて主人公のシンジくんが受けた理不尽な仕打ちへのモヤモヤが立ち消えないままだった…。多分それは今観返しても同じ感想を持つだろう。)
有名な作品なので簡単なキャラクターやあらすじは知っていたので、
Twitter等のSNSで話題になっていた今作を、観るつもりなどはなかったが
微かな前提知識を頼りに、面白いものに対するミーハー心で既に鑑賞してきた同居人に感想を聞いていた。
どうやら今回は今まで以上に非常に難解な内容だったらしく、
感想を聞いたどの同居人も開口一番の言葉がおかしかった。
「エヴァンゲリオン」は『面白い・面白くない』のレイヤーでは最早語られず、
『(なにを)意味する・意味しない』『理解できる・できない』が感想のメインであった。
我が家でも鑑賞した人間が複数になると、感想が次第に解釈・考察になる。
相変わらずわたしはミーハー心でそこに混じり、彼らによる今までの「エヴァンゲリオン」の解説を聞きながら考察を進めた。
これがなかなか面白いな、と思った。
彼らと画を共有せず、けれども同じ物語を考察のため何度もなぞる。
物語を何処から得るかと言えば、全て鑑賞者である彼らの言葉からだ。
それ以上のヒントは無い。(ネットで多少の画像は目にしているけれど…)
「あ、これは口承文学だ」 となぜだかすぐに思った。
口承文学とは、人伝えの物語。
文字や画で記録せず伝える物語。
だから更新性がある、という特徴がある。
口承文学は時代背景、環境、また伝承者の知識量や思想によっても物語が入れ替わる。
わたしは今「エヴァンゲリオン」を口承文学として楽しんでいる、と。
この場合における口承文学とは、「エヴァンゲリオン」でしか成し得なかったとわたしは思う。
(ベースとなる画がある以上、本来の意味として口承文学と定義できるかはわからないけれど、少なくともわたしにとってはだ。)
単に物語があるだけのアニメーションでは成らなかった。
事実と真実が表裏一体な物語では、誰が伝えても同じものになる。
同じ物語は何度も聞くには耐え難い。
「エヴァンゲリオン」は作中に多くの謎を散りばめ、含みを持たせ、
だから故に鑑賞者の背景によって物語性を大きく変える。
具体的には、映画になる前のテレビアニメーションを観ていたか、
前作の映画を観ていたか、モチーフとなった宗教について詳しいか、
鑑賞者(わたしにとっての伝承者)の経験・知識(またそれを引き出すための年齢・時代も)の幅で感じ、知ることのできる物語が変わる。
仮に事実が其処にあっても、それが真実とは限らない。
"言い伝え"られるには余りに短い時間であっても、
その仕組が口承文学としての面白さたらしめる。
口承文学は"言い伝え"であるので、
今に伝わるもの殆どに作者はいない(誰だかわからない)
「エヴァンゲリオン」には勿論明確に作者はいるが、
わたしにとって伝承者である3人の話を聞くうちに、
この物語はとうに作者の手を離れていると思った。
本来の口承文学の事実がどのようなものであろうとも、
現代に於いてはさして重要でないものと同様に
この「エヴァンゲリオン」たとえ正史と呼ばれるようなものが描かれても、
それを素直に信用できるよう伝承者は育てられてはいない。
正史は所詮事実であって、その事実を元に彼らは真実を求めるだろう。
作者が物語の更新をたとえ止めても、
伝承者が真実を掴むまで口承文学の更新は終わらない。
わたしはこの口承文学としての「エヴァンゲリオン」を
自分にとって誠実に完成させるため、正しく楽しむために
・作品を一切鑑賞しないこと
・文字情報として記録されている考察文等を読まないこと
を自分のルールブックに書き込みました。