もんだいのないわたしたち

先日参加した子供だらけのわーくしょっぷの写真を見返しながら、

その場にいた子どもたちに思いを馳せていた。

研究対象児童、その子の近くにいて一緒に遊んでいた子、

とても賑やかだった子、大人によく話しかけていた子、

そして「ああ、こんな子もいたなあ」と思った子。

 

 

「ああ、こんな子もいたなあ」子は、あのわーくしょっぷをどう思っただろう。

彼らの中で、なにかひとつでも見つけることができただろうか。

 

「ああ、こんな子もいたなあ」子は真面目で、手がかからない。

言われたことをちゃんと知り、自分の中で形にしていくために黙々と行動する。

余計なことをしない。

小学生とはいえ、少し頭のいい子なら気付いたのではないだろうか。

 


『ぼくは"対象児童"ではないんだ』って。

 



あのわーくしょっぷがとても疲れた理由のひとつは、

大人だけのコミュニティとは違う、

「空気を読む」「察する」がない、ナマの感情のぶつかり合いにあったのだが、

ふたつめはこれだと思った。

 

研究目的のわーくしょっぷなのだから、そうなることは当然としても、

たとえ研究対象児童がいなくても

わーくしょっぷのスタッフのおとなとして関わっていたなら

きっとわたしは同じ対応と、同じ記憶だったろう。

 

だってあの子たちは手がかからない。

ほっといても、道を外れることがない。

ずっと見ている必要がない。

やるべきことを自分で見つけて、ちゃんとやる。

だから大人は、彼らに手をかけない。

 


手をかけられない子どもたちが、

彼らなりに目的を見つけ進んでいくさまを、

まわりの大人たちが誰も気に留めない様を見ているのが本当に辛かった。

こんなにも彼らに心を寄せるのは。

かつてのわたしが「ああ、こんな子もいたなあ子」だったからだろう。

 



『ぼくは"対象児童"ではないんだ』

というほんの少し滲み出た寂しさのようなものを、

大人はわざわざすくいあげる必要はないと感じる。

だって彼らはそもそも沈んでなどおらず、

もっと酷く溺れている子どもたちがまわりにたくさんいるからだ。

けれど、その滲み出たほんの少しの寂しさは一体そのまま何処へ行けるというのだろう。

誰にも気付かれず、きっと本人さえもまだ言葉や形に出来ず、

少し少しと溜まっていく。

 



小さな子どもが親から感じる愛情の表現方法の殆どが

「いかに手をかけられるか」だと思う。

(…よく考えたら、小さな子供に限らず、恋人や夫婦だってみんなそうだ。)

 

真面目で真っ直ぐ、道をそれずに育った子供は

手がかからず、手をかけられず、

かといって滲み出る寂しさを上手く認識できる言葉を持たず、

その寂しさを表現する方法を知らず。

 

 


「ああ、こんな子もいたなあ子」だったわたしには弟がいる。

絵に描いたような悪ガキ、やんちゃ坊主で

勉強ができずに学校に親が呼び出されたり、

派手に家出をして、知らない人から家に電話があったり、

本当に手のかかる子供だったと思う。

 

悪ガキだったけれど、それはよく言えば賑やかな子供で、

彼が発する言葉ひとつひとつに大人たちは笑ったり怒ったりしたものだ。

手のかかる弟は、何かにつけて親が一緒にいた。

ずっと見ていないと、次に何をしでかすがわからないからだ。

手のかからない姉は、わりとひとりで何処へでも行けた。

目をかけていなくても、問題なんて起こさないからだ。

 


いつだって親に見つめられてきた弟をみて、

姉は親からの視線を得るためには彼の真似をすればいいのだと気がついた。

手がかからないから、わたしは見つめてもらえない。

手がかかればいいんだと。

そう思い立ち、どう行動したかはもう覚えていないけれど、

案の定怒った親の一言だけは今もずっと覚えている。

「あなたはあたまのいい子だから、何が悪いかわかるでしょう?」

今わかったことは、わたしはあたまのいい子などでは無かった。

手のかからないいい子だっただけの話だ。


手のかからないいい子は、どうやったら親の手をかけずに済むかを知っている。

だから、そこからわざわざ外れることなんて許されないんだ。

けれど、手のかからないわるいこは、

いいことと悪いことの区別がつかないから

それがつくまではしょうがないんだ。


 

 



わーくしょっぷの話にもどる。

区別のつかない子供は、ルールを大胆にはみ出して

大人たちを怒らせたり笑わせたり、とにかく場を賑やかに彩る。

区別のつく子は、大人たちの輪から少しそれた場所で

黙々とルールの中で動いている。

区別のつかない子に目をやりながら、

区別のつく子をほんの少し視界に入れる。

まるでそこだけ豆電球の小さなスポットライトが当たったように見える。

 



けして道を外れることがない、

彼らの小さな感情はどんなわーくしょっぷなら掬われるのだろう。

どんなわーくしょっぷも掬う必要がないほど、小さすぎるものなのか。





こちらの掬われなかった子供は、

「大人の手をかける方法」に気付いた頃には時すでに遅く、

親にうまく手をかけられずに、

同年代や、ちょっと上の大人に手をかけてもらっては

まるで彼らの子供のように育っていた。

 


本当の親の前では大きくなってもずっと、手のかからないいい子のフリをして、

それに飽きあとのことはちょっと言葉にできない。