戯曲「デート」

シェア大学

「定義し創る」
の講義は、自分の選んだひとつの物事(行為)の定義を自ら定め、

そして創造するというものだ。

 

 

わたしの参加しているクラスには
『観劇』を定義している受講生がいる。
曰く、観劇の定義とは『意識して観ること』

ということは、世の中の全てを意識し見つめることが出来れば
即ち全て観劇になり得る。
例えばデート中であっても、デートを観劇として定義することが出来ると。

この定義には個人的には非常に納得している。

 


が、他の受講生からは
「デートは観劇ではない」との声が上がる。 
「デートに於いてわたしは如何に相手を楽しませるかに尽力する。
相手を意識して見ている暇などはなく、それはわたしにとって"演劇"に定義されるだろう」と。


ほほう、と思った。
わたしは「演劇」としてのデートを楽しんだことがない。
いつだって相手をいかに観察し、相手についての、ふたりについての、新しい何かを得られるか否かがわたしにとってのデートだった。
(それはわたしの性別も少しばかりは関係しているのかもしれない)

 


「観劇」としてのデートしか楽しんだことがない
逆に、「演劇」としてのデートしか楽しんだことがないひともいるみたい。

 


わたしにサービス精神や、没入する心得が足りないのか、
はたまた観劇できない人には客観性が足りないのか、

 

 

「デート」という戯曲ひとつとっても、様々な立場があるものですね、というお話。