3月31日 恋愛ワークショップを終えて

 

先日、わたしが主催した恋愛ワークショップの第2回目が終わりました。

このワークショップ自体は既に4回目なので、段々と"恋愛ワークショップ"というキャッチーなフレーズに惹かれるひとばかりでなく、

"恋愛"というワードをきっかけに、対人関係や自分自身を見直す、という認識で参加する方が増えてきたように思います。

 

わたしはというと、(まだたった2回ではあるけれど)参加者の恋愛についての話を繰り返し、重ねて聞くことで、

段々と恋愛というものが、より平坦に見えてきたような気がしています。

第1回目の感想の際に言ったのですが、"恋愛"とは人の思考を木に例えると、

葉っぱの部分、一番表面的な部分でしか無く、実は其処の悩みを辿っていくことで全然恋愛とは関係のない

本来の根っこの部分が見えてくるものです。

その行程を繰り返すことで、その"葉っぱ"自体にも、色や形の違いが見分けられなくなってきたように思います。

この世の中にある恋愛の形は全て同じ、まったく同じ物をたくさんのひとそれぞれが、磨いて大事にしたり、苦しめられたりしているような、

そんな錯覚を。

 

 

 

 

ワークショップ後、講師である高石くんとわたしの前回のエントリ

「恋人になるということ」

について話をしていました。

彼は「とてもいい文章だと思う」と褒めてくれたと同時に「けれど、この文章には恋愛に於いて決定的に足りないものがあるよね」とも言いました。

 

それは、執着だと。

 

執着こそがひとを成長させる、と彼は言います。

言い換えれば"依存"とも言えるようなそれを、わたしは恐れているのだろうと思います。

だからわたしは世間に言われる、それぞれにばらまかれているような、みんなと同じ形の恋愛をしないのだろうと。

執着から逃げることで、恋愛を成立させまいとしているのです。

 

 

高石くんと話を続けていくうちに、ひとつの気付きを得ました。

恋愛を成立させまいと、そこで思考停止していた自分には

「恋愛を仮に成立させるには、どういった相手である必要があるのか」

という視点が欠けていたということです。

逆に言うとどういう相手であれば、自分の恋愛は成立するのか。

(いやに高尚っぽい物言いをしているけれど、凄く下らない考えだよなあ)

 

考えた暁に浮かび上がってきたのは、違った2人の人物像。

まるで神様のような大きな存在と、もうひとりは子供です。

そこに、歳相応の成人男性はいませんでした。

 

まあでも考えを深めると当然の如く、この2人に注ぎ込める、また与えられる愛情の質は

恋愛のソレとは大きく異なることに気付きます。

自分が欲しい安定の形である恋愛の妄想が出発点だった筈なのに、到着したところが恋愛ではなかった不思議。

 

 

では本当に、恋愛とはなんなのだろう。

神様に注がれるような、揺らぎのない大きな愛情を持っているものとは違うようです。

また逆に、見返りなど求めない、子供に注ぎ込む類の愛情とも異なるようです。

 

 

 

それはある意味、ひとつの「遊び心」のような気がしてなりません。

 

 

無償ではない、永遠でもない、

たったひとつでもない、

 

「心地良い」という自分の感情に嘘を付かず、そのまま身を委ねるような

また心地よさと同時に、それらが引き寄せてくる一種の罪悪感のような穢れも内包するような、

エゴや多量のワガママも含む。

コンクリートで固められた"美意識"からは大きく外れるような

珍妙な形をして人類に添えられている「遊び心」

 

そんな気が。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

前半と後半で、まったく反対のことを言っているような気もします。

未だ自分と恋愛というものの関係性、わたしはそれらを批判したいのか憧れているのか受け入れたいのか、

そんなこともわからないまま立ち往生しています。

 

個人の恋愛に関して悩んでいるひとだけでなく、

自身の恋愛観を改めてひとと擦れ合わせてみたいようなひと、

そんなひとにも来てもらえたらいいな、と思いながらまた恋愛ワークショップを開催する予定です。

 

どうぞ宜しくお願いします。

 

 

 

講師、高石宏輔くんの恋愛ワークショップ感想にあたるブログも同時にどうぞ

恋愛、執着について/恋愛ワークショップのこと | ナンパ、催眠を通して見出した他者と話すということ