文字を吐き出す

例えばこんな詩を書く。

 

 

「好きな男の子が相変わらず期待を裏切らないな、

 と思ったので

 あ、

 わたしはこのひとのことを好きではないのだなと思った。」

 

 

この詩は共感を呼ばないだろうな、と判る。

だって意味がわからないもの。

上2行と下2行の関連性が見えてこないもの。

 

勿論書き手であるわたしには判る。

 

好きな男の子になんらかの期待をしていると気付いてしまった、

期待をしているということは、わたしはわたしの中で理想の男の子を作り上げて

目の前のその子に理想の男の子をなぞらえさせているだけ。

それはきっと目の前の男の子でなくてもいい筈だ。

目の前の男の子が期待という枠から外れた瞬間、わたしはその子のことを好きではなくなるのだろう。

これはきっと、好きという気持ちではないのだろう。

 

足りない言葉を頑張って書き出すと、こういう風になる。

なにか足りないことが判っていても、上記の詩に加える言葉が判らない。

長文の説明が、その意味を語っているけれど、語られきった瞬間、その本質はきっと消えて行く。

 

 

 

詩だけに限らない。

わたしはいつも言葉足らずだ。

言葉足らずと言うか、言う必要のないことはわざわざ言わない、吐き出す気がない。

例えば高校時代にはテストの日程なんかをお母さんには言わない。

今朝なにを食べてきたかを恋人には言わない。

好きなひとの癖を友人に内緒話しない。

 

…伝える気がないのだろうか。

嘘だろう、気持ちがなければわざわざこのようなツールを使って全方位的に発信などしない。

 

 

わたしはわたしの気持ちを伝えたいのではなく、

わたしが生んだ言葉だけ伝わればいいのだと思っている。

文字の配列、繋ぎ方、改行、声に出した時の音。

そうじゃないんだろうか。

 

 

 

とすると、わたしは日常生活上でもこのような場でも、

言葉を発しているとは言い難いなあ。

言葉は他人に情報を伝達し、共有するためのツール。

わたしにはあまりそういう意識はない。

言葉を表記し、記録を残すための文字をただ吐き出してるだけと言えそう。

 

 

Twitterなんかまさにそういう場所だな。