ほんもの

 

「ごはんは何にする」「そしたら材料を買って帰るね」と連絡を取り合って

なんとなく数人分の買い物をスーパーで済ませる。

ピンポンを押して帰宅するが、

ただいまもおかえりも強要することはない。

わたしは黙々と料理をし、ひとりは黙々と仕事をしている。

ひとつの卓を囲んでみても「ありがとう」や「おいしい」ではなく

「今日は隠し味にレモンをいれてみた」「おー」

なんていう当たり障りのない言葉を交わす。

 

食事を終えたら口数はぐっと減り、

それぞれのスマートフォンやPCに向かう。

互いの画面でどういったことが行われているのか、それぞれに関心を持たない。

 

 

ああ、これが家族だなあ

これが家族で

こういうものが結婚だったらなあ

 

でも多分

これはホンモノでは無いのでしょうね。

 

ざんねん。

すみっこでひとり

 

先日とあるきっかけで「私は他人にそうやって行動を強いられるのが苦手なので、他人にも強いたくないんです。」と気を使ってくれた人に対し、言うことがあった。

数日経って発した言葉を思い返しながら、他者とのコミュニケーションを考える上で、自分にとって重要なポイントなのかもしれないと考える。

 

 

こういうことを考える時、いつも思い出すのは高校時代の昼休みの話。

その年頃の女の子ってみんな友達同士お弁当を持ち寄ったり一緒に学食に行っては、毎日毎日同じような話を繰り返している。

当初は私も例に漏れずだったが、三年間全く同じクラスメートだったことも関係してか、二年の途中で唐突に「どうして飽きもせず同じことを繰り返しているのだろう」と思いたち、「今日から私は一人でお昼ごはんを食べるね」と宣言したのだった。

 

その日から昼休みが始まるとすぐに図書室に向かった。

どんなに図書室が大好きな学生も、昼休み開始直後はみんなご飯に夢中。最初の15分から20分ほど、誰もいないひっそりとした図書室を私は独り占めしていたものだ。

早いお弁当を終えた男の子たちで図書室が賑やかになると教室に戻る。自分の席でお弁当を広げても良かったが、学食に出る子も多かったがらんとしたクラスの中でせっかくなので、窓側の日当たりの良い席に勝手に座り、ひとりピクニックを楽しんだ。

幸いな事に話しかけづらいタイプでなかったので、大抵の場合はご飯を終えて暇を潰したがってるクラスメートが声をかけてくれたり、中庭に面している窓側の席から外でキャッチボールを楽しむ男子に茶々を入れたりして楽しんだ。

 

毎日毎日、同じことを繰り返さなければならないルールから解かれた私は、その日その時間毎に会える人と、その時だけ楽しいことをただただ共有した。

それは大学生になっても続いたし、今にも継がれている。(そう、昨日のパーティでもそうであったように)

 

 

昼食に限った話でなく、例えば二人で出かけた美術館。

同じルートを同じタイミングでまわらなければいけないなんて馬鹿らしい。好きなものを好きなタイミングで楽しんで、たまたま合った時間のみ楽しいことを共有すればそれでいい。

それは家族でだって恋人でだって。

 

誰かに足並みを揃えることも逆に揃えられることも苦手で、

それは私自身が人の出入りが多いシェアハウスで居心地が良いことや、一つのコミュニティに属すことを避けていること、そして一つの恋愛が苦手なことにも帰結する。

 

 

たくさんの人が集まるパーティのような場所ですみっこでひとり佇んでいたり、休みの日に誰も誘うこと無くひとりで何処へでも出かけることを打ち明けると、「ひとりが好きなんですね」と称されるけれど(実際私自身もそう思ってきた)、それはひとりが好きなのではなく、意味もなく他者に時間を侵されるのが苦手なんだと気がついた。

 

暗黙の了解でただ継続していく関係性が苦手なだけで、多分わたしは誰かと一緒にいること自体はとっても好きなんだと思う。

継ぐもの

 

今を楽しめる人は、年齢に関わらず美しい。

私は彼女たちが好きだ。

いつまでも少女のように顔を赤くして、仲間とキャッキャと笑い合う。

 

昨日はフとした流れから、少しだけ戦争の話題になった。

奇しくも翌日は原爆投下日。

その話題が日付を意識し呼ばれたものかどうかはわからない。

 

 

「B29の赤い光が空を飾る様が、子供心に美しいと感じたの」

少女の瞳で彼女はそう言った。

 

 

語り継がれるべき逸話はいつも悲惨で、

だからこそ私たちは二度とその扉を開けてはならないと胸に焼き付ける。

あの頃ささやかに少女の心に宿った美しい光は、

歴史という大きな波に飲まれ消えていくべき産物。

語り継ぐ必要のない情景。

きっとその少女の瞳が閉じる時、誰の心からも消えて無くなってしまうものだから

せめてあの日の私たちだけはそっと覚えておいてあげよう。

 

めろめろ

  

大学内をふらふら歩いているとき、

いつも思い出す情景がある。

 

 

夜の芝生に寝っ転がって、

ゆっくりと欠ける月を静かに眺める。

 

 

 

この世界には興味のあるもの以上に

興味のないものが多すぎる。

けれど私にとって興味のない大多数のものそれぞれに

めろめろになっている人もいて。

その日インターネットではナントカ月食で話題は持ちきりで

それにめろめろになっている人の「見てみようよ」の一言で

私ははじめて夜の芝生に寝っ転がって、ナントカ月食を見たのだ。

 

この世界には興味のあるもの以上に

興味のないものが多すぎるけど

何かにめろめろになっている人の側にいるのがどうも好きなようなので、

その人たちのおかげで知りたいものが増えていくのは嬉しい。

 

 

 

「いってらっしゃい」と「おかえり」の呪文

 

 

昨夜からうちに遊びに来ていた見知らぬ男の子が、今朝出て行くタイミングに

「いってらっしゃい」と何気なく発したら

「久しぶりに誰かにいってらっしゃいって言われました。夫婦みたいでなんかいいですね」

なんて返されて。

 

あーそうそう、わたしも

まだ大きなおうちの住人ではなかったとき、その日初めて会った人に

「いってらっしゃい」を言われ

そのとき感じたじわ〜っと暖かいものだけで、

なんとなくその先の長い生活を保たせていたことを思いだしました。

 

 

 

彼女

 

 

「彼女は元の彼女に戻ろうとしているのではないのです、

無理のない新たな彼女に生まれ直そうとしている」

そんな言葉を思い出す。

 

ひとは一体他人の何の部分を好きになるのだろう。

まるで中身が入れ替わっても、それでも好きで在り続けることに

果たしてそこまで価値があるのだろうか。

「私はこの人の◯◯なところが好き」といって

それが失われたら去るという判断も、充分純粋な愛情だと私は思う。

 

それでも自分がそうはなれないのはきっと

好きな人のことはいつも「なんとなく好き」でいたいからなのだろう。

その人の柔らかな輪郭を捉え、ぼんやりとそれをなぞるように

なんとなく寄り添っていたい。

 

きっと中にどんな要素が入っているのかは

そこまで重要ではないんだろうな。